19830925、ついにきてしまったDF50営業運転最終列車。
この日が我々にとって特別な日となるのは間違いないが、
それが後の人生に、人生観にどう影響していくのかは当時は誰にもまだわからなかった。
天候は昼以降雨予報。
午前中の下りさよなら列車を2回撮りすべく、大田口へ我々は終結(集結)した。
AMの小歩危以南の土讃下りはどこでとってもほぼ逆光オンパレード。
前景ではなく背景に川を持ってこないと順光にならない。 豊永-大田口 予想通り編成後部きれてしまいました
撮影仲間で悩んだあげく、1回目の撮影地は順光となる大田口駅高松寄りのストレートかぶりつきとなった。
DF重連+50系5両では編成後部が切れてしまう恐れもあったが光線優先で基本スタイルの俯瞰撮影はやめになった。
超有名撮影地の土佐穴内-大杉の俯瞰地の様子
当時の棚田は美しかった。改めて見るとこれほど急角度での高低差のある棚田は他に類をみないのではないだろうか。
2回目の撮影地は土佐穴内大杉間の第2穴内川橋梁。
さよなら列車の編成は8月の秘境号と同じく旧客にしてほしかったが、
土讃ではゴーマル50系は営業列車では最初で最後になると思われ、サイドからの俯瞰にて決定。
この橋梁は国道から少し上った集落からの下り列車の俯瞰は知られていたが、2連巨大電柱がインカーブにあり、
あまりいい絵にならなかった。
皆あまり好んで撮影していなかったように思う。
サイドから写すには国道からけっこう林道を登らねばならず私は早くもへばっていた。
巨大な銀箱を肩にかけてよく山を登ったものだと思う。
反面、脚立がわりになったり、夜汽車で1BOX占領して寝る時の延長エキストラベッドになったりと便利な面も多かった。
サイドでの俯瞰撮影は編成ぶつ切り覚悟だったが、この午前の2回撮りの結果は不満を残すものとなった。
さよなら列車のヘッドマークはゴーマルに似つかわしくない青色で、
また50系客車もかつてのDF50土讃線客車列車の旧客編成を彷彿させるものではなく
通常運行の旧客122レにて行った亀山のそれとは違いちょっぴり残念な仕立てのサヨナラ列車だった。
高知機関区で折り返しさよなら列車の編成を撮影し、いよいよクライマックス最後の上りへ。
仲間と共に高知駅で226レへ乗り込み最後の撮影へ向かった。
予報通り午後から天候は雨に。DF50のさよなら列車は宮崎・亀山・四国と全て雨になった。
露出はギリギリになると思われ、我々が陣取ったのは角茂谷の通称滝壺俯瞰。
降りしきる冷たい雨のなか、サヨナラ列車は通過していった。
このときばかりは皆、訳のわからないことを叫んでいた。
びしょ濡れの体が一層そうさせたように思う。
ついに終った。
角茂谷駅でカメラを乾かし、慣れ親しんだ雑客に乗り込むと心地よい疲れが押し寄せてきた。
四国のゴーマルを集中的に撮影した2年半であったが、当時絶大な人気であったゴンパ(いわずもがなですがEF58)のように熱狂的なマニアはさほど多くなかったように思う。
撮影地がまだ知られていないところが多かったせいもあるだろうが
ほとんどのびのびと撮影でき、場所取りに困ることも皆無であった。
たった数年間の事であったが、多感な時期のこの数年間は今までのどの数年をとっても一番印象的で自身に色濃く残っている。
撮影合間に穴内川を見下ろしてでんと乗っかって昼寝していた積干し稲穂、
雑客鈍行228レの池田40分停車、
キハ181、キハ285865、DF50雑客、
DF50貨物がひっきりなしに往来した多度津、
全てが当時のまま眼前に浮かび上がる。
私はアナログとデジタルをまたいだ世代だが、それが昔を懐かしんでしまう大きな理由であると思っている。
ステンレス車両、LEDの明るさ、デジタル一眼の鮮明さ、スマホ、pc、
どれをとっても便利でシャープではあるがアナログの暖かみは継承されていない気がする。
もちろんデジタルを否定するつもりは毛頭ない。
テレビの鮮明さ、スマホの利便性などもう元のアナログ機器には戻れない。
だが、テレビチャンネル切り替えのガチャガチャ音、雑客の白熱灯 ジョイント音、駅員の生声での列車案内、
それらはもう過去の産物となってしまったが現代のそれにはない 暖かみ があった。
いや現代のそれを暖かみと感じられないのが昭和生まれなのだろうか。
数年前四国で余生を過ごしたスハフ43に乗りに大井川鉄道へ行ってみた。
外装に白帯が入った以外は往時のままでSLに引かれながら
久しぶりの旧客の味わいは感慨深いものであったが、
現役時代を完全に思い出させるものではなく、
何かが違っていた。
周り全ての環境もそうであるが、自身が変わっているからだ、
ということに気付いたのはしばらく後の事だった。
昔のままのDF50を体験することは、たとえタイムマシンで戻れたとしても、
もう不可能なのである。
そのような意味合いからもゴーマルが動態保存され客寄せパンダにならずによかったなと思っている。
まあマイナーな機関車なので、そうなるとも思わなかったが。
DF50は四国内では1両のみトップナンバーだけ車籍あり状態で保存されたが、
この後本線上へ姿を現したのは2020年までの30数年間でたったの3度だけであった。
高松駅展示・伊予西条送り込み・伊予西条0系キハ32展示の際の深夜の伊予西條駅での入れ替え
そしてかつての撮影仲間はこの日以降、数人が集まることはあっても、全員が一同に会する事はなく、30数年の時が流れた。