亀山のDF50亡き後、はじめて本格的に四国へ撮影へ。
といっても当時撮影地といえば、坪尻・大歩危ぐらいしか知らなかったが
これを機に徐々に未開の地、特に土讃本線にのめりこんでいくことになる。
■1980年 8月14日
新大阪 23:21発 宇野行急行鷲羽へ乗り込む。湘南色と新快速色のなんともしまらない混色12両編成だった。
当時はまだまだ寝台特急が健在で、東海道線沿線に住んでいたので時折EF58 を撮影していた。
ただ非電化区間を走るDF50の印象が強く、紀勢亡き後は、次第に四国のDF50を追いかけるようになる。
601M 鷲羽
←宇野 クハ153506 モハ152111 モハ153111 クハ153554 サロ16567 モハ152147 モハ153147 クハ153557 クハ15314 モハ15269 モハ15369 クハ15343
■1980年 8月15日
宇野 02:28着
宇野 02:45発 宇高連絡船
高松 03:45着 121レ(04:07発)DF5033バルブ
高松 05:04発 DF5056牽引221レで南下
讃岐財田の大カーブをいく221レを乗車中車内編成後部から200ミリ望遠で撮影
坪尻 06:50 坪尻下車。国道までの山道は今ほど荒れておらず、すんなり登ることができた。ただ駅前の廃屋は当時からあり不気味だった。
その頃はオフロードのバイクも置いてあったように思う。
国道32号まで登り、ドライブイン阿讃の端に三脚をたて陣取る。
キハ20普通、キハ181南風、キハ58・65あしずり・土佐、そしてハイライトのDF50 223レと12D南風交換と多彩な顔ぶれが撮影できた。
223レと12D南風の交換風景
坪尻撮影後、 小歩危へ移動。第二吉野川橋梁は残念ながら夕立による雨でにごっていた。
その後228レに乗車し池田でバルブしているが、翌朝4時までの足取りが思い出せない。
121レ:DF5033 221レ:DF5056 222レ:DF5029 223-228レ:DF50571 281レ:DF5022 280レ:DF5026 273レ:DF5065
221レ DF5056[知]
スユニ60 40 四カマ
マニ36 102 四コチ
オハフ33 594 四コチ
オハ47 113 四コチ
オハフ33 580 四コチ
オハフ33 540 四コチ
■1980年 8月16日
高 松 121レDF5012
多度津 多度津でじっくり撮影。DF50の貨物、客レがひっきりなしに往来する朝のラッシュは大忙し。キニ15、キユ25など他では見ることのできない車両もあり、全く飽きない。
DF5017 1エンド 補強なし
DF5017 2エンド 補強あり
本日の221レは高知区のDF5017が牽引。
1エンド前面補強なし長手摺、2エンド補強あり短手摺と、
両エンドの顔が違うことでちょっとしたネタになっていたが、実際は事故によるものであった。
17号機はこれが最後の顔合わせとなってしまった。
プッシュプルといっても後補機ではなく、運用上の後付回送、略して「後回」である。
1983年DF50終焉当時は日中3本しかない貨物を必死で追いかけていた頃から考えると、なんとも贅沢な頃であった。
今まで亀山ガマしか撮影していなかっただけに、紀勢の黒色フィルターの印象が非常に強く、四国の銀色鎧戸にまだなじめていなかった。
この鎧戸は光線によっては色飛びして写しにくかった。
すすけた老いた機関車には最終的には黒で締まる鎧戸なしフィルターがやはりよかった、と思っている。
その後223レDF5063で箸蔵へ行き、273レ、226レを撮影して終了。
かすかに残る記憶では、乗り継ぎの連絡船が到着すると、しーんとしていた宇野駅ホームがざわついてきた、ような気がする。
その後の撮影行で四国へ行くのに往復急行に乗ることなどなかった。いや片道さえも乗った記憶がない。
山陽線を鈍行の113系でちんたら行くか、格安なジャンボフェリーの利用が専らになっていた。
私にとっては、DF50撮影行の中では、貴重なカットとなっている。
宇野で発車を待つ鷲羽。宇野01:35発 新大阪05:26着
222レ:DF5060 273レ:DF5038 226レ:DF5065
121レ DF50 12[高] 223レ DF50 63[高]
マニ50 2019 南トメ マニ36 98 大キト
オハフ33 541 四コチ オハフ61 686 四コチ
オハ47 2282 四コチ オハ47 2315 四コチ
オハフ33 458 四コチ オハ35 1074 四コチ
オハ61 1584 四コマ オハフ33 473 四コチ
オハ47 2281 四コマ
オハ41 357 四コマ
オハフ61 20 四コマ