四国の撮影旅行では食事の楽しみは全くなかった。
食べることよりフィルム購入が優先されたからで、極力最小限の食事しかとれなかったからである。
思い出せるたべものといえば、高松駅(220円)と連絡船の少し黄色がかったプラ容器にはいったうどん、あとはキオスクでパンでも買っていたのだろうか。
当時の宿泊は、土讃線撮影後は夕刻の普通列車高知始発228レで高松まで北上し(高松22:08着)、高松発0:49発土讃本線普通夜行列車731Dで南下していくか、須崎まで行き須崎発20:48発普通夜行列車762Dで北上、高松着3:31 高松発4:23予讃線快速121レまたは土讃本線普通列車221レで多度津下車のどちらかの車中泊パターンであった。
その228レでは繁藤停車時は必ず、駅前の商店へ走った。
商店といっても民家の軒先で営業しているような店でスナック類しかなかったのだが、かっぱエビセンの袋を買うのが定例となっていた。
228レ繁藤発着時刻は17時49分着18時04分発。次の長時間停車は阿波池田19時30分着までない。
つまりこれが夕食だった。
水分と一緒に食べるとおなかの中でふくれて結構な満腹感が味わえたものだ。
リーダー格が好んで食べていたので真似していたような気もする。
ポテチではなくカッパえびせんだった。今でも普通に売っているカルビーのロングセラー、懐かしみながらときどきかじっている。
山間の撮影地では駅前に食料が売っている駅はほとんどなく、高松駅の立ち食いうどんが頼りだった。
現在のようにコンビニが点在していれば、たぶんお金が持たなかったのではないかと思う。
喫茶店で食するのはまれでこれが食の唯一の楽しみだったかもしれない。
当時は20世紀であったが、阿波池田駅前商店街に21世紀という喫茶店ができ、当時はやりのチンチラ張りの赤ソファー(都市部でいえば珈琲の青山)があるきらびやかな店でここで食べたピラフセットは贅沢だった。
喫茶店では数えるほどしか食べた記憶がないので、やはり相当贅沢だったのだろう。
お金があればフィルム購入が最優先の頃である。今の世代は機材さえあればいくらでも記録できうらやましい限りである。
フィルムが惜しいため、DC普通列車などはキニ25など珍車両がついていなければ見向きもしなかった。
四国特有のヘッドマーク付急行も1枚も撮らずに見送ることも普通で、行先サボや駅の風景なんかも最低限しか撮影しておらず、残念な限りである。
その分、1枚の価値が大きく、また思い出深いのだろう。
いつだったか撮影最終日手前でお金がつきはて、飲まず食わずで昼下がりの宇高連絡船まで何とか堪え忍んだことがあった。
何日間耐えたのかは定かではないが、最終日だけではなかったはずである。
100円玉数枚を残したその時に、連絡船で食べたきつねうどんは全くおいしくなかったのを鮮明に覚えている。
あまりに空腹で食べた途端に胃が痛くなったのである。
当時のお店
高松:茶豆館 駅前ビルの2階か3階だかにあって731D 0時47分発までの時間つぶし
多度津駅前:ウクライナ 今はホテルになっている
海岸寺-詫間:海岸通り 現存 → コロナ影響?で閉店となっているようです(2021)
坪尻:ドライブイン阿讃 随分前に閉鎖されているが2022年4月現在も荒果てたまま建物は残っている
阿波池田:21世紀 現存
四国での撮影行で最も贅沢な宴は、当時唯一の社会人だった撮影仲間のリーダーがおごってくれた、
高松駅前居酒屋での宴会だった。
それは1983年9月DF50さよなら列車撮影後で、四国撮影行での居酒屋での飲食は最初で最後であった。