弁天町の交通科学館が閉館となるが、18号機が京都の鉄道博物館に保存されず、津山へ行くと聞いたときは最初はピンとこなかった。そもそもゴーマルには縁がない所だったからであるが、よくよく考えるとその方がよかったな、と。なにしろ非電化であるし、昔の高知機関区を彷彿させる扇形庫もある。ともかくこの大移動はこの目で見届けなければならない。
幸いナメクジD51が一足先に津山へ旅立ったので搬送ルートは判明したが、これが全くの予想外。DF50に先立って津山へ旅立ったナメクジD51を見送ってる仲間からの中継連絡で交通科学館からの南下が止まらないというのだ。
一体どこへ?判明したルートは南海フェリー R11 四国フェリー R30 R53 というまさかの四国経由。どうやら巨大トレーラーではR2の通行許可がおりないらしい。
出発間近の休日に行ってみるともうジャッキがセットされており屋根のファンや煙道カバーが外されかけていた。ここで見るのももう最後だなと思いながらシャッターを切っていると感慨深くなってくる。
撮り鉄の習性になくなりつつあるものを追いかけるというのがあるが、当時を振り返ってみるとゴーマルに対する接し方はそうではなかった。美化するつもりはないがゴーマルを追いかけていた仲間は皆何らかのそれぞれの理由があって撮り続けたのだろう。車両の魅力ももちろんあったが、四国の雄大な景色の中での撮影はそれを一層引き立てるものであった。撮影、記録することが目的ではなく、それは手段の一つであり、その空間に身を置くことが自体が目的になっていったような気がする。
そのDF50の中でも四国ガマらしい個体をしていた18号機は撮影機会も多くお気に入りの1台であり、保存されたのは嬉しかったのだが、昔の恋人は昔のまま、のほうがよかったな、と最近は思う。つまり現状は昔のままではなく、銘板は四国名物のメッキ塗装なしのメッキがはがされ砲金むき出し、ナンバー文字までもメッキが剥がされている。いつの間にか乗務員扉のステーは曲がり、手直しされている塗装は多度津工場のオリジナル色ではない。些細な事であるが、現役時代を知っている者にはどうしても違和感がある。
およそ4日間かけて津山へ向かうのだが、トレーラーの積み込み作業を撮影していた友人から連絡が入り、なんとブルーシートがかけられたとのこと。後からわかった事であるが先のナメクジD51搬送はむきだしの輸送だったが、行き過ぎたマニアの行動があったようで四国フェリーから搬送会社(アチハ)へクレームがついたらしい。これでは絵にならないので少し気持ちが萎えたが、結果的には静かに搬送されたのでよかったかもしれない。高松港出発が予定日より遅れ津山到着が週末にかかることとなった。
宇野港を出発するDF5018
宇野港を予定通り午前0時きっかりに3台の先導車に守られながら津山へ向け出発して行く光景はなかなか壮観で、宇野駅周辺のかつて線路であった場所をトレーラーに乗っけられたDF50と自車とで並走していると何とも言えない気分であった。
津山での積下作業時間は先に搬送済みのナメクジD51のプレス公開、扇形庫押し込みとちょうど時間が重なった。D51も本線上に出るのはかなり久しぶりのはずであるが世代が違うのでそちらにはいかなかった。私が蒸気世代であれば逆だったのであろう。現代のステンレス車両には全く興味がわかないが、それは今の若い世代がしっかりと記録してくれるがごとく。改めて国鉄末期の世代であることを認識させられた。
四国経由ではなく陸送のみで別々に輸送された台車が先に線路上へ設置。ゴーマルの台車を上から眺めるのはどうやら初めてである。大型クレーン車での大掛かりな作業は慎重に進められ無事に終了。休日であったのでもう少し集まるかなと思っていたが、報道含めても10数人ほどで皆思い思いの場所でシャッターを切っていた。
後日整備後公開されるようだが、ここにはかつて四国で空気のような存在であったキハ181やキハ58もあり、のんびりと眺められる日が楽しみである。できれば真鍮、砲金むき出しのゴールドナンバー、銘板だけはオリジナルのメッキに戻してほしいなあ。そう思いながら日中は春の陽気となった津山をあとにした。